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2006年1月10日

日本人の原点の生活を歌い続けて45年・及川清三氏の今

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主人の同級生及川寛さんの弟さん・及川清三氏の記事が産経新聞社発行の「2006年 みんよう文化 1月号」に三隅治雄氏との対談形式で掲載されました。農作業の辛さ、喜びを体験して、民謡の本質を地道に歌い続けて45年の「及川節」を赤裸々に話して下さいました。

松山町出身の民謡歌手及川清三さんは、宮城県志田郡松山町の大きな農家の三男として生まれ、生まれた時から聞いていた民謡の歌い手を志し、上京し、民謡大会などで素晴しい成績を収め、25歳で「及川会」を結成し、民謡に指導にあたり、その後、テイチクレコードに移り、専属契約を結び、現在はテイチク専属民謡会理事長を務めていらっしゃいます。

平成14年、歌手生活40周年記念リサイタルを盛大に開催。平成15年、日本郷土民謡協会より技能賞を受賞していらっしゃいます。

対談の中で、現在は、「何の経験もない人が作業唄を歌う時代ですから」と、三隅さんは話し、清三さんはお父さんから「家の仕事を手伝えばそれがスポーツだから」と言われ、学校へ行く前に一仕事をして、民謡は家族みんなが農作業の中で唄い、生活の中で唄い、お祝い事に唄い、清三さんも馬小屋で馬の世話をしながら「長持唄」などをよく唄っていたそうです。

清三さんが上京した頃、フランク永井さんが世に出てきて、中学校の先輩で同郷のフランク永井さんには
大変刺激を受けたそうです。

清三さんは、フランクさんが低音だから、俺は高音でと思っていたそうです。

宮城県の代表的な民謡「さんさ時雨」は、上京しての祝い事や宴会で良く唄われたそうですが、幼い頃のたくさんの思い出がよみがえったそうです。

歌手になると子供の頃から決めていたそうですが、15歳で上京して鉄工所勤めから始まった東京での生活は、のど自慢コンクール出場の日々だったそうですが、2位の成績が多かったと話していらっしゃいました。

レコードを出すようになり、コンクールとは違う唄い方をマスターして、一味違う「及川節」が誕生したそうです。清三さんは、民謡だけじゃなく、お兄さんの寛さんがやっていた謡曲を取り入れ、発声法を勉強したようです。

「舞踊歌謡」及川清三の名前のほうが良く知られているそうです。現代は、踊りの方が盛んで、民謡の本場でも、地元の人が民謡を知らないそうです。

宴会で始まるのはカラオケで、清三さんは何とかしたいと話しています。

三隅さんは、手仕事でやってきた米づくりは実生活の中の中心で日本文化そのものだつた。と話しています。そして、手づくりの時代は厳しかったけれど、その厳しさを知り、暮らしの中で唄った民謡を地道にじっくりと唄い続けている清三さんの唄には説得力があり、貴重な存在と話し、日本民謡の為にひと肌も
ふた肌も脱いで頑張って下さいと結びました。

それに対して清三さんは、今まで当たり前の事としてやってきたことを、もう一度見つめ直し、民謡と離れてしまった農民の生活を語り継ぐ最後の世代かなとの思いで、命ある限り民謡を唄い続けてゆきますと力強い言葉で締めくくりました。

新年対談でしたが、これから「大崎市」に向けて合併を間近かにした私達には、考えさせられる事が数多くある対談でした。

大崎耕土の「米づくり」を原点に戻って再思考するきっかけになるような話がたくさん詰まっていると思いました。

そこには日本人本来の姿があり、日本人の勤勉な生活様式があることに気づくことと思います。


今日のガンディーの言葉 「全ての人は、自分の存在の源を探すべきである。」

投稿者 jizai3 : 2006年1月10日 12:07

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コメント

昔は、歌と労働は一緒のものだったのですね。歌によって労働の辛さや単調さを和らげ、また収穫の喜びを心の底から味わうことができたのでしょう。歌の下手な私はどうしたらいいのかしら(汗)
定年退職後に畑仕事を始めた方からいただいた今年の年賀状に、「労働は精神を浄化させてくれるようです」とありました。私から引きこもりやニートの人に提案---「まず体を動かしいい汗ながしてみませんか、そして歌ってみましょう!!」。


投稿者 kaz : 2006年1月10日 15:56

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